比庵と孫達の接点

 清水比庵の子供は明子(はるこ)一人である。次女闔q(しずこ 門構えの中に月)が生まれたが生後10か月で夭折した。明子には5人の子供が生まれたの で比庵の孫は5人である。5人とも比庵の人間性と作品に触れあう点が多くあるのでこれ等について私の記憶を辿ってみたい。

1.孫の命名と誕生の贈り物

 5人の孫の名前はすべて祖父がつけた。(曾孫10人のうち3人も命名した。)

    最初の孫  (男)  易(やすし 平成5年他界)
    2番目   (男)  固(かたし 筆者)
    3番目   (女)  好子(よしこ 米国在住)
    4番目   (女)  汎子(ひろこ)
    5番目   (女)  充子(みつこ 米国在住)

 上の3人の孫には誕生の際に記念の画を贈っている。 4人目の汎子は比庵が娘明子を画いた[追羽根]を譲り受け、5番目の充子は後に自分の息子と娘のために「お雛様」と「鯉のぼり」を祖父に画いて貰った。 私の名前「固」は意志強固になる様にと付けられたと思うが、「名は体を表すと言うけれども固(硬)くなったのは意志ではなく動脈硬化だった」と病院で看護 士に言って大笑いされたことがある。 しかし最近は「戦災と7回の手術を受けながら80歳台まで生きているのは生命力が強固であった」と解釈して固という名前に感謝するようになった。

                   
(鍾馗様)     (金太郎)     (立雛)     (追羽根)     (お雛様)     (鯉のぼり)
(易)     (固)     (好子)     (明子→汎子)     (充子)



2.日光町町長時代 

 私の祖父の記憶は日光町長時代から始まる。私が生まれたのは横浜市だが記憶は殆どない。昭和11年に父の勤めの関係で千葉県市川市の借家に 移って小学校時代を此処で過ごした。最初の3年間は祖父は日光町長で日光市内に家族と別れて暮らしていたので、夏休みに兄と共に祖母に連れられて日光に行 くのが私の最大の楽しみだった。日光では夕方祖父と一緒によく東照宮や二荒井神社周辺を散歩したが、出会う人の多くが祖父にお辞儀をするのが不思議だっ た。 
 「祖父は毎日役所から帰ると居間の緋毛氈の上で習字や画の習作に余念がなか日光明智平で孫とった。文字や図形を一度書いた上から幾度も重ね書きするので 真っ黒になった反古・新聞が沢山あった」と後年兄易は語っている。


3.市川市での大家族時代

 昭和14年に5番目の孫充子が生まれ、同時に祖父は日光町長を辞して市川に帰ってきた。家族は比庵夫婦、娘夫婦それに孫5人の9人の大所帯となり、祖母 や母は忙しい毎日だった。この時代の祖父の芸術活動は幼かった私の記憶には残っていない。しかし孫を連れて朗吟しながらの散歩、朝の不恰好なラジオ体操、 新聞紙裏表を使っての習字、面白かった祖父の話など覚えている。
短歌誌「下野短歌」には多くの歌(特に長歌)を寄稿している。その中で孫娘を詠んだ長歌がある。

 ・   「謎」   幼稚園の兒と母親と  なぞなぞ問答いろいろありて  考えて兒のいひけらく  家の中逃げたり止まったりするものは何 ぞ何ぞ  鬼ごっこかあらずあらず  何ならむ何ならむと  母親の困れるを見て  それなら教えてあげよ  蠅ですよと 
 (昭和16年 孫娘好子満6 歳)
 ・   「鈴」   稚な児の玩具につきし  小き鈴ちぎれ落ちしを  拾ひとり袂に入れて  なにならぬ起居につけて  ちりちりと音にひ びくを  たのしみてありけるほどに  家のもの終に聞きつけ  あやしみて問はまくすれど  われはこたえず 
 (昭和16年 孫娘 汎子満4歳)
 ・   「孫」   孫を抱き歩きて居れば  かわいらしき見ろとひとり  言ひ過ぐる婦人もあり  口許をはつかにゆるめ  ながめ行く老 人もあり  大方は子うまごなど  もちて居る人にてあらむ  はたやわが抱くこの孫  かくばかりかわいらしき  孫にてもあるぞ
  (昭和16年 孫 娘充子満2歳)

 平和な大家族生活をしていた清水家に昭和17年10月突然の不幸が襲う。祖父の糟糠の妻(私の祖母)鶴代の死である。留守番と手伝いのため大久保にある 自分の伯父の家に行っていた祖母が心筋梗塞で急死した。私はその数日前大久保の家に遊びに行って好物「おはぎ」を作ってくれた祖母の死を子供心に信じられ なかった。急病の知らせで大久保に行った祖父と両親が何事もなく帰宅すると思った私は親の手助けになると思って部屋に寝具を整えて待っていたが、急の知ら せを受けた近所のおばさんが寝具を片付けてしまったので腹が立ったことを覚えている。祖母の冷たくなった遺体と共に帰宅した祖父や母達の涙と、化粧した遺 体のきれいさは悲しい思い出である。

    わが妻は うつくしかりき 死顔の かくうつくしくして あるをわれは見ず  


4.市川時代の思い出

 @  我が家の新聞は裏表すべて比庵の習字で殆ど真っ黒で、これを私が小学校で鼻紙に使って鼻が黒くなり、友達に揶揄されて恥ずかしかっ た。
 A  孫達によく昔の話をしてくれた。それが大変面白く紙芝居を聴いているような気持だった。
  • 発句を嗜む老人の家に泥棒が入り泥棒と発句で対話して意気投合し、酒を酌み交わした話。 これを兄易が小学校で話して先生に褒められた。易は更に後年雑誌「新聞研究1989年1月号」にこの話を随想「比庵の思い出」として書いている。
  • 備中松山藩藩士で新陰流達人だった祖父の祖父(清水壽介)が山中で4〜5名の山賊に会い「身ぐるみ置いていけ」と言われ構えただ けで山賊が逃げた話。壽介は男が立派で文武両道の由。
  • 芳賀一心斉(?)という剣豪の武勇伝(内容は忘れた。)
  • 高校(旧制六高)受験で不合格と思い、自宅に帰れず友人宅に逃げ込み後で合格だと知った話

 B  近所で火事があり、あわてて墨だけ持って逃げ、お金は部屋に置いたままだった。
 C  毎朝家族が庭でラジオ体操をしたが、祖父の体操は子供心にも父に比べて不恰好に見えた。 また剣道のメンの型をよくしていたが、学校で習った型の方が良いと思った。
 D  祖父は風呂好きだがカラスの行水で、風呂の嫌いだった私は祖父と入るのが好きだった。
 E  朗詠をする祖父と詩吟好きな父に言われ兄と詩吟教室に通ったが、詩の意味が解らず困った。
 F  祖父の所望で白髪抜きと肩たたきが孫の日課のようになった。
 G  夏対策として祖父は干した蜜柑の皮を燃して煙で蚊を追い払う事を毎晩やらせた。効果は抜群だったが一時的で、寝る時は孫が蚊帳に出入 りする際に入った蚊の退治で大変だった。
 夏の夕方は祖父が庭に水撒きをしたが、その水を井戸から汲んで運ぶのを手伝い疲れた。
 H  昭和17年祖母が死去した時満3歳だった末の孫娘充子を寡夫になった祖父は特に可愛がり、ハンモックで寝かせたり、炬燵で絵本を読ん で聞かせたりしていた。
 I 昭和19年各家庭に防空壕を作れとの命令が出て我が家も作った。半地下で周りを薪で固めたもので、警戒警報が出て数回家族で入った。 昼でも暗くて狭い壕に入るのは怖かったが、その中で祖父が話をしてくれたのが救いだった。



6.苦しかった疎開生活 60歳代

@ 疎開時のトラブル
 戦争が次第に厳しくなり、私の父も昭和18年末に40歳にして陸軍少尉として応召された。内地勤務なのが救い だった。空襲が激しくなり、岡山県笠岡町(現笠岡市)在住の祖父の妹から疎開してこないかとの誘いがあり、20年1月祖父と3人の孫娘が先発疎開した。そ の際は内地勤務だった父が引率して笠岡に向ったが、乗り換えの岡山駅で祖父一行が父と逸れてしまい、祖父は停車していた列車に行先を確かめずに乗車した。 これが上り急行で姫路まで逆戻りするトラブルになった。祖父は本当に困ったそうで、備忘録としての歌日記「うすら雲」にこのトラブルを「疎開風景」という 題の長歌で詠んでいる。

{疎開風景}孫たちお疎開せしむと、ひきつれてその父と共に まがねふく吉備の中国
    遠けれどふるさとさして 岡山に急行汽車を 乗り換へて小夜ふかければ 駅員の室に休らひ
    久しくも待ちしと思へ はや汽車の入りしと言ふに あわてつゝその父を先に 
    重き荷物を背負ひ持ち 幼きを引立てわれもやうやく走りゆきしが その父の姿も見えず
    心せき汽車には乗りし 発車してそこに怪しみ 傍らの人より聞きて 乗り違ひせしと思へど
    この汽車は上り急行姫路まで止まらぬものを 二た時も走りつゞくを あなやとて驚きさわぎ
    人らまたのゝしり言へば はらわたのよじるゝばかり 悔やめどもせんすべしらに 恨めども
    寄るべもあらず 幼きが泣くを賺かして 菓子をやり脇に抱きて いつしかも寝入りしものを
    覚めぬ間にはやもはやもと 既にして明け行く窓に 孫達の駅ひとつひとつよみつくし
    姫路へつきぬ 折よく下りの汽車の ありたるにたゞに乗り換へ このたびは心明るく
    さるにても長き旅路を ふるさとの駅に来ぬれば はしなくも汽車より下りし その父の姿を認め
    孫たちが声を揃へて 呼びければ驚き驚き 息つぎてその父曰く あゝいかに心配せしぞ
    岡山の駅に戻りて 姫路にも電話をかけ 四方八方をたずねてもあぐみ かきみだしうれへつつ
    われもこの汽車に乗りては来しぞ この同じ汽車にこの汽車に乗りては来しぞ
    うちつれてこの同じ汽車に乗りてふるさとへ

      こがねふく 吉備の中国遠けれど われは疎開す ふるさとなれば
      幼な孫 疎開せしむと ひきつれて 終にかへれり ふるさとへわれは

 母と息子2人(兄と私)も2か月後の3月にやはり笠岡に疎開する事になった。この時も父が一緒だったが、当日は東京大空襲 で東海道本線は不通になり、辛うじて横須賀線で逗子の祖父の弟の家に行き1泊せざるを得なかった。このように疎開生活はスタートから大変だった。

A 私の罹災経験

 笠岡へ疎開してすぐ私は岡山市の中学校に入るため岡山市内に下宿した。ところが6月29日の岡山市大空襲で下宿先は焼け、どぶ川に入って防空頭巾で顔を 覆って火の手と煙を避けて助かった。列車は動いていたので当日笠岡に帰れたのだが、罹災状況をよく見たいと思ってのんきに市内の罹災者集合地に1泊した。 翌日帰還した時の家族の喜びように当人がびっくりしてしまった。その間の心配ぶりを祖父は長歌にして川合玉堂への手紙に添附している。(下記) この後私 は7月に列車内で機銃掃射を受けるなど危険な経験をしたが、祖父からは「死なないで済んだ事は有難い事であり、人生の貴重な経験だ」と励まされた。

 {孫} 二十九日の大空襲 わが孫はいかにせしや
無事ならばはやも帰らむ いくたびか罹災者列車
来れども孫は還らず 気の利かぬ兒にこそあれば
逃げ場をや失ひたるか 運の好き兒にてもあれば
何かして逃げ抜けけむか その母のところへゆきて
あれこれと想ひ語れど 二人して語るに堪えず
わが室に独り来りて 同じことくりかえすなべ
一人にも堪えず
 {反歌}   翌日のひるすぎに 孫はみだしたるさまにもあらずて
帰り来れり 四方火に囲まれければ
下水溝にとびこみて その水をかぶりたりと

B 片田舎に再疎開

 岡山市が戦禍に会い笠岡も危ないとの心配で家族は山奥に再疎開した。祖父は一人電気も水もない岡の上の離れ家に住むと言う悪条件だったが、そこでも歌を 詠み手紙を書く生活を終戦前後半年弱続けた。そして食事時は笑顔で家族のもとに来るし、川合玉堂との手紙による歌交換や弟三渓との連絡は頻繁に続けてい た。戦争末期の昭和20年5・6月でも月5通程の書簡を玉堂に送っている。



7. 東京 駒込でのスタート  昭和20年代(60歳代)

@ 家族8人の生活
昭和22年末3年間の疎開生活を終えて清水家の家族8人は東京駒込で新生活をスタートした。 生活は苦しかったが、祖父は毎年川合玉堂の賛助を受けて開く弟三渓との兄弟展(野水会)が好評な事などで次第に故郷岡山県を中心にファンが増えた。そのた め毎年夏には妹のいる笠岡を居城として活動するようになった。昭和28年には地元岡山市で初めての展覧会も開いた。
孫5人は昭和25年頃を例にとると大学生から小学生までいたが、低学年の妹は学校から帰宅して祖父の昔話を聞くのが楽しみであった。

    孫むすめ ひなの節句に 草餅を たべしのみにて 機嫌よく勉強す

A 列車の座席取り
祖父の岡山行の際は孫達は東京駅で東海道本線の座席を確保するために先に行って並ぶ役もした。昭和20年代はまだ夜行寝 台特急は無く、二等車(現在のグリーン車)に乗る余裕のない祖父は木製座席の自由席で帰郷していた。駒込にいる期間は次第にお客や郵便物そして頂き物が増 えて賑やかだったが、祖父のいない期間の我が家は静かで別生活のようだった

B 川合玉堂
祖父は駒込にいる時は毎月1回弟三渓と川合玉堂を訪問し、また歌に関する書簡をやり取りするのを楽しみにしていたが、あ る時は体調が悪く孫娘の汎子(当時15歳)に代筆させてまでして手紙を出している。この時期は孫から見ると祖父は優しいおじいちゃんでしかなかったが、川 合玉堂の名前は偉大な画家として家族全員が認識していた

C 正月雀の屏風
昭和27年数え年70歳になった正月、祖父は竹藪だけの貧弱な屏風に岩を画き、毎年1羽づつ雀 を挿入する事を始め後に「比庵の正月雀」として有名になった。しかしその過程ではとんでもないトラブルもあった。当時夏の長期間祖父は笠岡に行き不在だっ た。家が狭いのでこの間祖父の部屋を使っていた上の妹好子が友人から雄の子猫を貰い「チロ」と名付けて可愛がっていた。その猫が上記屏風にオシッコを掛け て汚してしまう事件が起きた。それを母が祖父が笠岡に滞在している間に破れた所も含めて表具屋に補修して貰い事なきを得た。祖父がこのことを知っていたか どうか私は知らない。現在この大作屏風は祖父の故郷高梁市の比庵記念室に展示されている。



8.昭和30年代(70歳代)芸術活動拡大

 
左:名誉市民憲章     右:比庵の名刺
 戦中・戦後のまだ無名時代から比庵の芸術活動をサポ−トしてきた川合玉堂が昭和32年に他界し15回続いた野水会の作品展も終わっ たが、翌33年には日光市の名誉市民となり、作品展も毎年複数回開かれるようになった。各地に比庵会も発足し、歌碑の制作や木彫り作品(窓日彫)まで幅広 い活動が続く。 建直した我が家の2階の書斎にいる祖父のもとには来客・電話・郵便物。届物 (日光市と高梁市)がいろいろあり賑やかだった。
@ 私の就職
私は昭和31年に大学を出て社会人になった。当時は就職難といわれて幾つかの会社の就職を受けたが、運よく3社に合格し た。祖父は非常に喜び友人への手紙に近頃の吉報として書いている。

A 正月雀
70歳の正月から始めた正月雀の屏風は雀の数が多くなると今年のはどれか家族・来客にも解らなくなったが、6年目の雀だ けは孫の易から羽を広げて飛ぶ雀の注文を受けて画いている。

     この年は 孫がいふゆゑ 羽ひろげ 飛び来し雀 画き加へぬ


 
左:若い頃(横分け)  右:77歳(長髪)
B 髪型
若い頃は艶のある髪を横分けにして口髭をはやした立派な紳士だった祖父は、古希を過ぎる頃今までの7・3分けからオール バックに髪型を変えた。 床屋に行くのが面倒なのと芸術活動をする上で気楽且時間の節約になる事を考慮したようだ。当時はまだオールバック(長髪)ははやらず、祖父は外出すると子 供たちから「オカッパじいさん」と呼ばれたりした。 年月が過ぎ「おれの真似をしておる」と祖父が得意がる程オールバックの人が増えたが、更に時代が変り長髪が巷に溢れるようになると「不潔でいかん」と嘆い ていた。その頃長男(祖父の初曾孫)が当世風の長髪若者になった妹好子が長男を連れて里帰りした時部に長男の髪型を気にしていたが、2階の曾祖父に挨拶に 行った長男が「マミは髪を切れと言ったけどおじいちゃんはロングヘアーじゃないか」と言い、祖父も「あの子のは よく手入れされていていいよ。ハンサム だ」とかえって褒め、身贔屓もよいところだと皆が笑った。

C 優しいおじいちゃん
末の孫娘が友達を連れて来ると、にこにこして話に加わり友達が「うちのおじいちゃんとは全く違う」と羨ましがられた。

     孫の共 となりの室に 笑ふ声 にぎやかながら 夕かたまけぬ

また大学生となった中の妹汎子がギターを欲しかったが、祖父がケース付の高価品を購入してくれた。「それを満員電車に乗って大学まで持ち運びするのが大変 だった。」と後年妹は話している。



9.昭和40年代  まどかなる・くれなゐの晩年(80歳以降)

「紅(くれなゐ)をもて老いを描く」と詠んだ比庵の晩年は、弟郁と妹章子が相次いで亡くなった悲しみを乗り越えて自由闊達なエネルギーに満ちた傑作品を多 く残している。
@ 宮中歌会始めの召人に
昭和41年の宮中歌会始めに祖父が選ばれたのを我が家で知ったのは早朝のテレビ放送だった。
それからひっきりなしにお祝いの電話がかかり大変だった。祖父は比較的落ち着いていたが、「美しい歌を詠まなければ…」と言った。たまたま米国から末の孫 娘充子が帰国していたが、祖父の服装点検をしてモーニングの新調と、靴は孫達のプレゼントを決め、祖父と一緒に日本橋三越に行き誂えた。
その間のいきさつを祖父は下記の様に書き残している。(写真はその時の服装)



薔薇の花 あまた貰いて
夢よりも 美しき室に
ねむらんとす
笊一杯 貰ひしいちご
多くして うれしくして
あなうつくしきかも
A 

B 頂き物を画に
祖父のもとには果物・野菜・菓子・花など色々な頂き物があったが、先ず祖父がこれを画にしてそのあと母の手に渡るのが多 くあった。 

C ガールフレンドからの電話
比庵の晩年の写真を見ると多くは着物姿の美人女性に囲まれているが、そのうち特に親しい女性3人に妹充子はNo1,2, 3と名付けた。その女性からの電話取継ぎの際は「おじいちゃん!ガールフレンドNo1からの電話よ!」と言い祖父は、「よしよし」とニコニコしながら電話 口に出たそうである。また祖父の人柄、・作品が好きで祖父も茶会等で懇意にしていた女将の料亭に、後年私の従弟がたまたま行き、祖父の作品が多く飾られて いるのを見てびっくりして「あそこのママは比庵のコレか」と聞かれ母共々大笑いした事もあった。

D 孫がゐるゆゑ
孫達が独立してさみしくなったが、最初の孫易の一家が近所のマンションに住みよく来てくれた。

     孫のゐる 八階建てが 眼の前に 風情なけれど 孫がゐるゆゑ

E 孫の弟分
父方の従弟が子供の時に両親に死別れて孤児になった時、祖父が我が家で面倒を見てやれと言い しばらく我が家に居た。母もよく面倒を見たので後年社会人になった従弟はその恩を忘れず清水家の6番目の子と自称して母の百歳祝賀会や葬儀等には必ず参加 している。

F モダンな趣味思考
祖父は明治男でありながらモダンな面もあった。ダンスが出来ない事を残念がっていた。 またテレビの英会話講座の他、日曜日の晩に放映されるロバートヤング主演「パパは何でも知っている(Eather Knows Best)」が好きで見ていた」と妹充子は言っている。

G こけし人形
祖父の画いたこけし人形が好評で、我が家に残っていたのは1体となりまだ持っていない妹の汎子が貰うことになっていた。 ところが或日[清水崑画伯が気に入られたからあげたよ。家内が大変喜んでいますと礼状がきたよ。汎子には別に画いてやるよ」と祖父が言い、結局そのままに なった。「上出来の作品はたいていよその人か三渓叔父さんに渡ってしまうのよ」と母はこぼしていた。

93歳の比庵が出した手紙の一部
H 米国にいる孫娘への手紙
昭和50年93歳(満92歳)の誕生祝を米国在住の孫娘充子から貰った祖父が充子に出したお礼の手紙には祖父の作品が文 化庁の海外紹介計画の候補になっており、実現の時は自分も行きたいが高齢のため無理なら両親を行かせるなど毛筆で書いている。とても93歳の手紙とは思え ない。この手紙は充子が額装して大切に保管している。


10.まどかなる生涯の終焉


昭和50年10月初旬当時山口県にいた私のもとに祖父重体の電話があり、急遽帰京して入院している病院に駆け付けたが、祖父は殆ど意識がなく呼びかけると 僅かにうなずく程度でこれが祖父との永遠の別れとなった。一旦帰宅して訃報を受け取り、駒込の自宅で見た祖父は大往生のまどかななる顔であった。その晩は 祖父の遺体の隣で寝た。
近くの寺で仮葬した後生前多くの思い出を残した岡山県笠岡市の威徳寺で本葬が行われ、戒名に院殿大居士の称号を頂いた。
お寺に行く細道とお寺の境内には供花が飾られ、比庵の歌10首が、その中に示され、多くの弔問者に送られて祖父は旅立った。
墓石には生前に書いた次の歌が彫られており、歌の通りまどかな一生が終焉した。 
     まどかなる夢をむすぶといふことのいかにまどけきものにあるかも


11 比庵没後

祖父他界の後私の両親は祖父の作品整理や寄贈などの仕事の他、祖父の足跡めぐり旅行や内外旅行を楽しんでいたが、10年後に父尚が、18年後には兄易が亡 くなった。大家族だった駒込の住居は母明子と兄嫁の2人になり、母は比庵芸術の顕彰をライフワークとして頑張った。その後現役を引退した私が手伝うように なった。没後年月が経っても比庵の人気は衰えず、近年ブームになった絵手紙の先駆者的存在だった事もあって新しい比庵ファンも増えて来た。母が97歳と 100歳の時に清水家主催の比庵展を開催し、母が比庵の絵手紙についてのギャラリート−クをして拍手喝采だった。その母も平成24年1月に102歳で亡く なった。私達子供にとって母はビッグママであったし、比庵の最大の信奉者であった。
 左:  100歳の明子が父比庵を想って書いた色紙
     亡き父の 書かれし「遊」額一つ
     心の「遊」 忘れるなとさゝやく 
清水明子百寿

 右:  比庵の書「遊」



12 比庵語録

 祖父が生前私達家族に語った話(人生訓)を列挙する。

 @  若い時の苦労は無駄でない。苦労は若い時に先取りして楽を老後に残せ。
 A  必要以上の欲を出すな。腹が立つばかりで醜い顔になる。初めから無かったものと割り切れば心も平和になる。
 B  借金だけはするな。人に金を貸すときはやると思わなければならない。
 C  人に贈物をする際「つまらないものですが…。」と言うのはよくない。つまらないものなら贈らない事だ。
 D  この頃の子供には本当の子供らしさが欠けている。大人の雛形でしかない。早く大人になり過ぎる。
 E  子供が成長するまでは親の責任だが、すべてを子供に投資する時代は終った。金が総てではないが自分の金は老後も少しでも持 ち、同時に 楽しみを持つこと。老いてみじめなのはいかん。

     狐は穴あり 空の鳥は巣あり 人には少し 銭のあれかし

 F  嫁姑のトラブルは昔も今も変わらない。互いに相手を尊敬し思いやりの心を持ち努力と忍耐だ。
 G  己れは何一つ悪い事はしていないから死んでもお前たちを困らせる事は何もない。どんなに悪い事が起きてもどん底まで落ちる かに見える ところで光明が見えてよくなるのが我が家の運命らしいからね
 H  生きている人の価値は死後十年二十年と年数が過ぎてから本当の事が分るものだ。死後二十年経ったらこの世を覗いてみたい。


 祖父の上記の話は半世紀前昔のものだが、これらは現代にも通用する語録ではないだろうか。
 しかし私は残念ながら落第生の一生らしい。



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